40代からのアコギ習得への道

音楽・楽器経験ゼロからアコースティックギターを始めます&ランニングも!

(登山) 大人になると本質を追求したくなる、の巻き

ランニングをしていた時は
寒いから行きたくないな~
と思ったことは、あまり記憶にない



でも
山登りの場合は
寒いとやだな~
といつも思うw




今日はこれまで登った近所の山で
山頂とされるところにや
地図上のピーク表示されているところに
何もないところはいくつもあって



手作りの標識を5個ほど掲げに行った



山に私物を設置するな
という意見はあろうだろうけど
はっきり言って
個人個人の価値観に過ぎない




僕の考えとしては
道標は公の機関がすべきだと思う



なぜなら、万が一にも方角が間違っていたり
経年で朽ちてしまって読み取れなくなっていたり
そういう道標は数知れずあるが


それが元で迷う人が少なからず出るのは確かで
そういう責任は公の機関が担うべきと考えるから



一方で
標識のない山頂や小ピークは
この現代であれば
電子地図とGPSで間違えようがなく
そしてそれが読めなくなっても
それが理由で迷いが発生することもない



なぜなら、そもそもないものだからw



私有地だとか私有林だとかにけしからん
と唱える人が後を絶たないが



そもそも今歩いている山道やら
降りてきたときに通る民家の横道が
私有地だったとしたら
わざわざその所有者に断りを入れて歩いている
という人は皆無だ



世の中には、人のやることが気に入らないと思う人が多く
私有物を見つけたら
景観を損ねるとか、国有林に設置する権利はないとか言って
取り去って捨てるという人がいるようだがw



バリエーションルートを歩くと分かるが
数十年前に設置されて
すでに倒れ切って山に埋もれている
鹿柵用の有刺鉄線があるのに気づくだろう



機能しているときは人のためだからと許されても
錆さびになった有刺鉄線柵が
山の地肌にめり込んで放置されているのは
これこそ撤去すべきではないかという理屈が通じそうだが
実際は放置されっぱなしでも、誰も文句を言っていない
(言っている人もいるかもしれないけどw)



廃道になった登山道の標識やらも
朽ちてもそのまま放置であるのだから
景観もなにもないという理屈



ということで
道標ではなくて山頂標識を作って掲げるのを
いくつかのピークでやってみようと思った次第




今日もバリルートだから
だ~れ一人として出会った人はいなかったけど



山道を歩いているだけで
心底楽しいと思える



友人がとてもきれいない富士の写真を
登るたびにリアルタイムで送ってきてくれるのだが
僕が返すのはいつも、林、の写真だ



美しい景色が見られる場所は
それはそれは感動するものだ



しかし、これから僕が登ろうとする先に
きれいな絶景は全く必要ないと思えるようになった



絶景が見たくて山に登るのではなく
山を踏みしめて歩くことに喜びを感じて登る



年を取ると
本質に近づきたいという欲求が生まれるのか?
なかなか面白いものである




 

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